大宮第2、第3公園と土呂をめぐる


 2015.10.20

大宮観光ボランティアガイド会 

 「大宮第2・第3公園と土呂を巡る」

目次

 1.大宮公園

     沿革

     大宮第二公園とひょうたん池、寿能泥炭層遺跡

     大宮第三公園

 2.割烹旅館東山の防空壕跡

 3.寿能城

 4.見沼代用水(開発の歴史と規模)

 5.百体庚申社

 6.土呂の地蔵堂・陣屋跡

 7.土呂河岸跡(見沼代用水西縁舟着場)

 8.市民の森、見沼グリーンセンター

 9.神明社、 土呂の大杉

 10. 旧大宮市最古の.筆古塔、 阿弥陀堂

 11.小島家長屋門(江戸幕末の高野長英隠れ家)

1.大宮公園

 沿革
  明治維新後に氷川神社奥山が官有地となる。

  (※明治政府による社寺領上知令(明治4太政官布達第4)により氷川神社の社領地8万坪のうち、約6万坪が官有地とされた)

  住民有志から公園設置の請願書が出され、明治17年に公園設置許可。明治18(1885)に氷川公園として開園するに至った。

 開園後の氷川公園は、明治中期から大正にかけては野趣の風情があった。割烹旅館も立ち並ぶようになってからは東京の奥座敷的な感を

 呈するようになり、当時の文豪たちもこぞって来訪した。
   大正10年に本多静六博士によって、改良計画が発表され公園の拡張整備・近代化が進められ、昭和前期にほぼ現在の姿になった。昭和

 23年に公園名称を大宮公園とした。

   戦後暫くして更に拡張整備が進められ、昭和55年に第二公園が、平成13年に第三公園が完成し、現在に至っている。

   (※大宮公園総面積⇒20万5千坪 67.7Ha)                                                 ≪出典:大宮観光ガイド会 説明資料≫

 ・大宮第二公園・・・見沼田圃区域に整備した拡張区域で、1980(昭和55年)にオープンした。面積23.5ha

 ・第7調節地・・・急速に市街地化が進んだ大宮市東部に流れる芝川の治水対策として第二公園に隣接して、1984(昭和59年)に

  整備・竣工した。 (面積15.2ha

  ・ひょうたん池・・・第七調節池は洪水時には満水になるが、日頃は水量も少なく、その一部を池(ひょうたん池)として公園的要素を

  持たせている。               ≪出典:埼玉県公園スタジアム課HP ウィキペディア≫

  ・寿能泥炭層遺跡・・・この遺跡. は芝川の治水計画による建設工事中に発見されたもので 1979(昭和54年) 秋より2年 間に

  わたって発掘調査された。遺跡調査は埼玉県立博物館が主体となって行われた。(発掘品は縄文時代の工芸品で県博に展示されて

  おり、飾り弓・耳飾り・木鉢など縄文人の暮らしが伝わってくる。)

           ≪出典:大和田だより(織本重道)、 縄文・弥生時代の遺跡(歴史と民俗の博物館)

  △大宮第三公園

   大宮第三公園は、大宮第二公園の南側に整備した拡張区域で、2001(平成13年)にオープンした。こちらは災害時の緊急避難や

 救難活動の拠点性を重視して整備されている。整備開始当初は、県営大宮球場や県営大宮サッカー場の新築移転先として計画された

 が、「見沼田圃の原風景を活かし、人や生物にやさしい緑、水と光の空間の整備」へと方針を変更して開園した。面積9.8ha 

                             ≪出典:埼玉県公園スタジアム課HP  ウィキペディア≫

  2.割烹旅館東山の防空壕跡

  <埼玉新聞 昭和191218日>  大宮市高鼻町東山(篠崎氏)のトンネル式防空壕は、客室用ラジウム温泉として設計構築されたもの。本館より見沼田んぼの平地に抜ける延長約28(.m)、高さ7(2.1m)、幅員約8(2.4m)の横穴。4室とも全部コンクリート築構されており、電燈その他設備も理想的に完備している。完成以来業務用としては使用されていなかった。空襲下、県下一の防空壕と県官より折り紙を付けられ現に00省高官が寓居し執務室に宛てている。このトンネル式防空壕は地下45尺 見沼田んぼに面した一室が下の入り口で 本館よりと入り口が両方にある。

                      ≪出典:大宮観光ガイド会研修資料2015.9.3「新聞に見る終戦前後の大宮」河田捷一≫

  <現状⇒東山の奥様に聴き取り。「戦時中は防空壕が確かに有りました。場所は現在の本館レストランの地下で見沼の方まで繋がっていました。その後も外から窺う事が出来ましたが、建物の新改築などで入口を塞いでしまったので今は見られません。唯、防空壕は今でも残っています。」

  3.寿能城

  永禄3年(1560)頃に岩槻太田氏岩槻城支城として見沼に面して築城された。

  初代城主の潮田資忠は通説では当時の岩槻城主の太田資正の四男とされている。その後、太田資正の嫡男氏資後北条氏方に属して

 岩槻城主になると、寿能城も後北条方の城になる。

  天正18年(1590)の小田原征伐のさい、城主の潮田資忠・資勝父子は418日に小田原城にて戦死。寿能城も豊臣方に攻められ

 て落城。徳川家康の治下に一帯の開発が命ぜられ、城址は殆ど失われた。

  太平洋戦争時には城址に高射砲が敷設され遺構の破壊が更に進んだ。近年になって城址の一部(さいたま市大宮区寿能町2丁目155

 地)が寿能公園として整備されたが面影はほとんど残っていない。寿能公園に立つ潮田資忠の墓碑「潮田出羽守源資忠之墓」は資忠の

 子孫が元文3年(1738)に建立したものである。      ≪出典:土呂の史跡と文化財(織本重道)、  ウィキペディア≫

    ※寿能城跡:寿能城の正確な位置・範囲は資料が無いためよくわかっていない。

    ※(関連小話)北沢楽天  出丸、出丸橋  潮田橋

    ※潮田家遺臣の北沢甚之丞は甚之丞新田を開拓した。その北澤家は代々紀州徳川家の鷹場本陣御鳥見役であり、北沢楽天はその

    13代目にあたる。

    ※出丸跡は見沼用水にかかる潮田橋からひょうたん池までの東方に突出した小高い所。 出丸…本城から張り出し設けられた

     曲輪(くるわ)。

    ※潮田橋の名は、寿能城主である潮田資忠に因む。

  4.見沼代用水

  見沼代用水は8代将軍、徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛によって、享保13年(1728)に建設された農業用水路。 見沼溜井

 (ためい)の代りとして造られた用水路なので、この名称となった。

   見沼代用水路は利根大堰(埼玉県行田市)を起点に、幹線水路の総延長は約70km、8市6町を流下し、終点はさいたま市南区・

  東京都足立区で荒川に合流、埼玉県をほぼ南北に横断している。

   見沼代用水の建設は、かんがい(農業用水の取水、水不足の解消)だけが目的でなく、干拓(見沼溜井を含む中川低地に数多く存

  在した湖沼や溜井の干拓)、治水(洪水防御、見沼新田の排水のために見沼中悪水路(芝川のこと)を開削。運河(見沼通船堀を建設

  し、見沼代用水の沿岸地域と江戸を結んだ水上輸送を確立)までも含んだものであり、本邦初ともいえる広域に及ぶ総合的な土木事

  業だった

   見沼溜井跡地に新田として1175町歩(約1160ha)が開発、毎年5000石弱の年貢米が新たに幕府の蔵に納められるようになった

 【土呂町の由来など】

   1889明治22年) - 大和田村、砂村、今羽村、西本郷村、堀崎村、島村、土呂村の各村が合併して大砂土村が成立した。大和

  田村の「大」、砂村の「砂」、土呂村の「土」の3字を合成して新村名とした。

   土呂町は大字土呂であったが、昭和になって一部は別の地区へ編入された。一例で言うと寿能町一・二丁目の一部へ、植竹町二丁目

  の一部へ、盆栽町の一部へ編入されている。残った大字土呂は1958(昭和33年)から土呂町に町名変更。1971(昭和46年)

  一部が住居表示を実施し土呂町1〜2丁目になった。

   <土呂の地名は見沼に由来している>・・・「土呂」の名は、長瀞の「瀞」のように『静かに水をたたえる場所』という意味で、見沼

  に由来するといわれている。

  5.百体庚申社 (土呂町)

   この百体庚申社は、土呂町在住の新見国一郎氏が、福の神として、60日に一度めぐりくる庚申の日ごとに一躰ずつ石像の猿を奉納

  したもので、約17年の歳月を要した。一般の庚申塔は複数人数による信仰が、成就の暁に一基建立されが、新見氏の例は市内でも

  唯一の例ではないかと思。    ≪出典:大宮観光ガイド会説明資料≫

  .-1 御嶽社・御嶽墓地

   土呂村領主初鹿野傳右衛門信昌(昌久)が甲斐から同氏の氏神として勧請。

   初鹿野信昌の子昌季(左側)、孫昌次(右側)の墓碑が2基あ

  .-2 土呂の地蔵堂 土呂陣屋跡

   江戸時代、土呂村主初鹿野氏の陣屋が地蔵堂の近くにあり、近年の区画整理事業に伴う発掘で、堀跡などが確認されている。陣屋

  は北之屋敷と呼ばれた所にあったらしい。

   地蔵堂は初鹿野家の墓守堂として建てられたものといわれている。地蔵堂には、現在、本尊の地蔵菩薩の他、薬師如来、大黒天の

  三像が安置されている。

    なお、初代初鹿野昌久は甲斐国武田の家臣であったが、主家滅亡後、徳川家康に仕え、天正十八年(1590)徳川氏の関東入国に

  伴って土呂村の領主となった。この地蔵堂付近に陣屋を築き、以来幕末まで知行した。同氏が甲斐国から勧請したという御嶽社は

  幾度かの変遷をみて、現在隣の薄田氏屋敷内に祀られている。≪出典:土呂の史跡と文化財(織本重道)、さいたま市の説明看板≫

    ※地蔵堂や橋の命名由来を地元の方にお聞きした。⇒地蔵堂、薄田橋、喜の助橋、川島橋

    <地蔵堂の現状⇒隣に住む薄田家ご当主に聴き取りしました。(2015.10.19)「地蔵堂は我が家で管理しています。が、地蔵堂

   がそっくりそのまま入る形で幅員の広い都市計画道路の工事が進められております。地蔵堂は南側に移転する予定です。御嶽社は

   この地区に2社あります。1社は我が家の敷地内に有りますが、氏子は我が家のみですので講などはしていません。もう1社は東

   武線の南側にあり6軒の氏子がおり、講の代表者が山梨の御嶽神社に毎年お詣りに行っていました。最近は農家も少なくなり代参

   はしていません。」

    <薄田橋の由来⇒橋の脇の薄田家当主幸敬(さちひろ)様より聞きとり(2015.10.19) 「私の先祖・平七が明治の後半に作った

   もので薄田橋と名付けられました。当時は丸太を板に切った板橋だったそうです。川幅は今よりもっと広かったが、戦後になって

   コンクリートの護岸工事が行われ川幅は狭くなり今のようになった。

    御嶽社(東武線の南側)は、講の代表者が山梨の御嶽神社(甲府・御嶽昇仙峡の金桜神社)に毎年お詣りに行っていました。)

    <喜の助橋の由来 ⇒橋の脇の小島家の奥様様より聞きとり(2015.10.2)「小島の先祖・喜之助が昔に作ったもので喜の助橋と

   名付けられました。>

  7.土呂河岸跡(見沼代用水西縁舟着場)

    市民の森と見晴公園の間にある川島橋付近(見沼代用水がカーブしている辺り)は明治7年(1874)に設立された見沼通船会社の

   土呂河岸跡である。

    公園内の墓石・・・童子・童女の名前などが刻されている。

   波田野家・・・川島家の隣:河岸んちといわれ、江戸時代惣之助、明治時代宇之輔等が見沼舟運土呂河岸で活躍している。

   ・<川島橋の由来 ⇒橋の脇の川島家当主より聞きとり(2015.10.19) 「川島家の先祖(藤之助氏、郡会議員)が私財を投じて明治

   末頃に架けた橋で川島橋と言われています。物置に昔の木橋で使った木材1枚が記念に保管されています。公園の用水脇に有る

   地蔵さまは、用水で溺れた子供や舟運で水死した人を供養して造ったもので、今も花が途切れないです。」>

   ※見沼代用水西縁舟着場 (河岸場と舟運、見沼通船会社)

  ・農業潅漑用水路として開削された見沼代用水は、舟運にも利用された。見沼代用水路による舟運は灌漑用水利用の副次的なものと

   して、期間は用水明けの十月下旬から十一月初旬に始まり、翌年三月頃までの四カ月間とされた。

  ・会所と積場…見沼代用水路の要所には船割・積荷監視・通船料徴収の業務を行う会所が置かれていた。大宮市域にある北袋会所が

   管理した積場は北袋・下天沼・上天沼・堀之内・高鼻・下土呂・上土呂・本郷・砂・今羽の一〇カ村が利用した。代用水路の河岸

   場は「積場」と称し、積場は会所の出先としての役割を持ち、用水路沿村に固定して設けられていた、ここには若干の護岸工事を

   施して荷揚を便にし、納屋や荷物置場を作って荷物の一時保管等もするなど運輸の円滑化が図られていた。

  ・(北袋会所所属の積場)…北袋・下天沼・下土呂・上土呂・本郷・今羽など10カ所

  ・見沼通船の目的は幕府へ納入の年貢米や御用荷物、並びに藩領・知行地の年貢廻米の輸送にあり、余力で沿岸諸村の野菜等を

   江戸に送った。

  ・この見沼通船は、明治七年(一八七四)に見沼通船会社に改められ、東京への貨客輸送に大きな役割を果たした。

  ・大宮市域内には、見沼通船第七会社(大砂土村土呂)など4出張所が設けられた。

  ・やがて十六年(一八八三)日本鉄道株式会社によって鉄道が開通すると貨客が陸上交通にとられ、また大正年間の貨物自動車の

   普及は一層通船事業の経営を困難にさせ、昭和六年二月、通船事業許可の満期と共に廃された。

            (出典:「大宮のむかしといま 大宮市発刊」 より抜 

 8.市民の森、見沼グリーンセンター

  ・市民の森・見沼グリーンセンターは、見沼たんぼの北部に位置し、敷地の東側を芝川に、西側を見沼代用水西縁に隣接した、面積

   約14万平方メートルの緑豊かな施設。ここには、芝生広場・健康歩道・林間テラス・りすの家・展示温室・盆栽展示場・市民農

   園・指導農場・来園者用駐車場及び見沼グリーンセンター本館などの施設があり、一年を通して多くの方々に利用されている。 

 9.神明社 土呂の大杉

   (祭神)…天照大御神、国常立尊、伊弉諾尊・伊弉冉尊、倉稲魂命

   (記念碑)土呂の大杉…<銘文>土呂の大杉は神明社の御神木として土呂の台地から見沼の田圃を見下している 推定樹齢八〇〇年

  樹高二六米 目通七米 しだれて四方に張った枝は五〇〇畳を覆い その雄大な風姿は他に比も少なく 大正十五年二月十九日 天

  然記念物として県の指定を受けている。大日本老樹名木誌によれば 源義経が蝦夷地に渡る以前 この村を通り 満々たる見沼の風

  景を眺めながらここで昼食をとり 地に挿していった箸が芽を生して今の大杉になったものと言われ 民俗学上のいわゆる箸立杉の

  代表的なものである また一説にはその人を源義家とも伝え 因んで白幡の杉とも呼ばれる。ここにこの巨木に寄せる氏子の限りな

  い愛敬の情よりいま碑を建てるにあたって神明の社に永遠の平和をもたらされることを祈るものである

  ・埼玉県知事栗原浩題書
   大宮市教育委員会教育長韮塚一三郎撰文
   武蔵一宮氷川神社宮司兼神明社宮司東角井光臣撰書

   (記念碑) 日露戦役凱旋記念碑

   (正面)日露戦役凱旋記念碑  前衆議院議員勲四等 小嶋善作書
   (裏面)〔出征軍人名略〕  明治三十九平和克復第二歳之秋日建之
   (下に)昭和三年戊辰春日    御大典之歳在改書              
≪出典:土呂の史跡と文化財(織本重道)

 10.旧大宮市最古の筆古塔(土呂:阿弥陀堂)

   浄職院跡  享保年間に寺子屋開設、県内では最も早い時期である。明治5年廃寺

   明治7年3月~25年12月まで土呂学校(土呂尋常小学校)が置かれた。

   阿弥陀堂 昭和45年4月改築

   住職墓地 (無縫塔)〔右側手前から4番目が権大僧都法印俊長。 施主筆子拾七人享保十四己酉年(1729)

  • *旧大宮市域で最も古い筆子塔

     筆子塔とは寺子屋の生徒を筆子と言い、成長した筆子が師匠の恩に報いるため立てた石碑、又は筆子たちが師匠の徳に感謝し建立した墓碑である。

    ≪出典:土呂の史跡と文化財(織本重道)

  • 11.小島家長屋門(江戸幕末の高野長英隠れ家)

  • 小嶋家は土呂村の名主を勤めた家で、代々「平兵衛」と名乗った。 屋号「平兵衛様」。母屋は改築されたが、長屋門は昔のままである。長屋門…江戸後期、寄棟、漆喰壁、下見板張り、門部後退、開き戸、潜り戸、出格子窓、両脇部屋独立。この長屋門の中の向って右側の6畳間は、高野長英が蛮社の獄(文政8年(1825)の異国船打払い令に対する幕政批判への取締り)で永牢中の弘化2年(1845)に、出火に乗じての逃亡中、片柳村の漢方医井上弥十郎の紹介で長英を匿った部屋という。小嶋家には長英から贈られたというギヤマン皿と洋皿が残されている。

    ≪出典:土呂の史跡と文化財(織本重道)

 


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